民度とはなんであろうか

日本って、本当に幸せな国なのか?



民度という言葉がやたら気になるのです。



昔のコンサルタント時代に民度といえばすぐに「地域の経済力」というイメージだった。
いわゆる「その都市・地域にどれだけのマーケット需要が望めるか」、そこから出店計画を割り出したりという数字的なイメージが主体だった。



巷では最近「民度」というと、『どれだけ故郷や住んでいる土地を愛しているか、知っているか』という様な意味合いに使われている傾向がある。
こういうムーブメントも「地域の見直し」という意味で歓迎すべきことなのだが、ちょっとこの傾向も生きすぎのように思うことがある。
なぜなら観光地・地場産業・歴史など「良い部分」を掘り起こすことはもちろん大事だが、その裏にある「影の部分」をおざなりにして語るわけにもいかないと思うのだ。



改めてネットで「民度」について調べてみた

  • 国民がまわりの流れに押されず、自分でものを考え、歴史や地理からどのくらい教訓を得ているかの度合いである 本田勝一
  • ある地域に住む人々の、生活水準や文化水準の程度。 三省堂大辞林 第二版」

前者では『教訓を得ているかの度合いである』、後者では『文化水準の程度』という言葉が面白い。
いわゆる計数化しにくい尺度をもって民度と言っている訳だ。
「国宝級の神社仏閣がいくつある」
「国内屈指の地場産業が何社あって、国内の○○%のシェア」
「平均所得額がいくらで、生活費に割く割合は○○%」
こうしたことも大事だが、『この地域の住民は過去の出来事に関して(どれだけ)積極的にかかわり、(どれだけ)教訓として取り込み、(どの様に)対処しようとヒビ考え努力し、そうした活動やマインドにより(どれだけ)心が満たされているか』ということも大事ですよということだと思う。



そういう目で街を見ると...

写真を凝視いただきたい。
いたるところデコボコしている歩道。
市役所の前を通る府道...である。
しかも車道も狭く自転車が車道を走ることなどまずムリな道幅。
仕方なく歩道を走る(交通違反だが)しかない。
こんな道を喜ぶのは自転車に載せられた幼児や小学生ぐらいなものではなかろうか?
ひどい場所になると1mも離れずにアップダウンが繰り返される。

盲人の方が歩くには恐怖を感じるだろう。
いや、デコボコだけではすまない。側溝にかぶせられたフタが出っ張っている部分や落ち込んでいる部分などもある。ひどいのは敷地側との間に段差ができている部分も...
「イヤなら歩くな」とでも言いたいのだろうか...



交差点の前である。
ご覧のように、「盲人用タイル」が敷かれており、ガードレールに守られている...が微妙なところに電柱や支柱が立っており、自転車と歩行者がすり違える間隔はほぼ無い。
左手側は平地の駐車場なのだが、昔の塀の基礎が5cmほど残り段差を作っている。
盲人ならばまさに「針の目を抜く」様な行動が必要となるだろう。


普段は人通りの少ないこの道も、ある時間帯になると宗教団体に通う信者の群れで専用一方通行路の様な状態となる。
健常者でも歩きにくいことこの上ない。




私はここに民度の一端が示されていると思う。
そしてこの歩道は私の知る限り、30年は変わっていない。
そういう民度であるとも思う。



日本全体がこうでなければ良いのだが...