輪廻について考えてみる

きっとあると思っているのです


先週月曜日の「Y君の死去」を元に、「生と死」について考えさせられた。


命って、やっぱり目的があるわけで
「何のために生き、何を残して死んでいくんだろう」って不思議になりますよね?
例えば、生まれてから死ぬまで盲目的にせっせと働くアリンコさんたちがいる。
1年も生きられない短い命なのに、なんであんなに頑張っちゃうんだろうと不思議になっちゃうわけです。
働いて「リッチになって、でっけぇ家建ててやるぞ!!」とかってシャカリキになっているアリンコっていないじゃないですか。
リッチなアリンコっていうのも想像しにくいですが....
ひょっとすると、アリンコの世界は厳しい専制君主制で、文句言ったら「村八分」にされる...とかって事情があるのかも知れませんが、一糸乱れず働く姿は怖いほど。
その中で傷つき、足がもげたりしたアリンコさんはどうなるのだろうか?
きっと、餌も与えられず自ら死んでいく運命に身を任せるのではないかと...
文句ひとつ言わずに....アリンコ語で文句言っているのかも知れませんが...(笑)


アリンコ...いえ人間以外は全てこういう自然の摂理的な社会環境・構造の中で、自分の使命を果たすべく日々生活している。
人間だけが変なんじゃないか? って思っちゃうわけです。


人間以外の世界を「正」と考えると、間違いなく人生で一番大切なのは一生懸命生きたかどうか、じゃないのかなぁと思われるわけです。
芋虫にしたって、木々や花々にしたって、その他野生の動物で楽している命なんてありません。(「ナマケモノ」はまた意味違いますからねぇ(笑))
もちろん人間の世界でもそれはいえるのでしようけれど、それ以外の生物と比べると色々と違うファクターが入りすぎっていう感じがしますよね。
単純でない。
でもブログ上では文字数にも限りあるし、きっと生命ってそんな複雑なものじゃないと思う=思い切り、単純に考えてしまいましょう(笑)


で話は飛んじゃうんだけれど、どうも輪廻って存在するって考える方が自然な感じがするんですよね。
何度も生き返ってはアリンコになったり、ミジンコになったり、木になったり、だから人間になった時も一生懸命生きようとする基礎がある。
それは言い換えれば「生命の宿る星を連綿と紡いでいくため」に刷り込まれた集団意識かも知れないですね。


じゃダレがそれを刷り込んだのか、それが神か??
ひょっとすると基本としての「第一神は星の命」そのものだったりして。
そして星とその上に生きるたくさんの命の運命共同体としての意識の集合体を、総称としての神さまと我々は認識しているのではないかという...ん〜、神学的なことはここまででおいておいて(笑)


そういう前提に立てば、私達「個」としての意識は実は副次的なもので、まずは生きること自体に大いなる意義がある。
全体的に食料は問題ないか? という様な感じの全体主義がまず根底に流れていて、個として腹へっていようがそんな問題は二の次。
確かに神様って、個に対しては結構厳しいですよねぇ、どの宗教も。
まずは全体として、「元気にやってるかぁ〜!!」「歯を磨いたかぁ〜!!」(笑)なんてことが大事なんですよね、きっと。
当然、一生懸命に生きた命は「おお、見上げたもんだね、ニクイねコイツ」なんて、星=神も大事にしようとするんでしょうねぇ。
「ほらほら、楽しそうな次の生命をあげようねぇ〜」「お...お許し下さいましぃ...」って、鼻の下伸ばした悪徳代官に良いようにされる生娘の様に....(苦笑)

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ちょっと地球の身になって考えてみると...

生命の宿らない、または死滅した星はきっと寂しいことでしょうねぇ。
地球の周囲はそんな命の無い星ばかり。
きっと地球さんもそうなりたくないので、一生懸命なんでしょうねぇ。「とにかく賑やかにやってくれ!!」「頑張った奴は褒美やるぞ!!」なんてね(笑)

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並行して、いかに生命を紡いでいくための環境整備に貢献できるか...実は元々そういう環境連鎖の役目を生命は持たされているんじゃないかと。
食物連鎖だけじゃなくてね。
ん、ひょっとすると食物連鎖の中で、そういう意識も次々と譲り渡されていたりして。ひょっとして、私の意識・考え方の一部は魚からいただいたものもあったりしてね。(笑)

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熱帯魚の中でもキレイなものから、ゴミ掃除担当のぶちゃいくなものもいる。(笑)
とってもじゃないですけれど一匹だけじゃ役目を果たさない。組み合わせることで環境は出来上がっていく。
って、熱帯魚の世界だけで生命の環境を説明しようというのもかなり無理があるけれど、まぁそんな感じですか?(苦笑)

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最近ちょっと人類が暴走した感があるものの、まだまだ地球という環境制御システムの中では「想定内」の問題ではないかと思うんですよね。
いま人類が環境整備の方向に動いているのも、自然が作った節理に従っているだけだと思っちゃう。ここに個の集合体としての意識の重要性が出てくる。
結局地球さんの思惑の掌の中でもてあそばれている孫悟空みたいなもんなんでしょうかね。そう、どんなにいたずらしても結局自分の行動は自分で尻拭きしなきゃなんない...昔オカンによく言われたのと同じ状態??


そんな感じじゃないかと...
[どんな感じでしょうか?(笑)]


まぁ、こういうような感じで、ある種「生命というものがシステム化されたもの」だと考えていくと、死もシステムの一部だとなってくる。
死って、結局次の輪廻へのステップボードであり、病気などで死期を迎える人は、病気という名の正常進化をしているのではないかな?と思うのですよ。

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もちろん人によっては、その人生の懺悔のためであるかも知れないよねぇ。
ひょっとすると、病死すること自体が地獄だったりして。

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そういう特殊なこともあるでしょうけれど、大半は次の生を受けやすくするため今の生のうちに「精神」を変化させるのが死期の病気なのではないかと思ったりするのです。
それほど次の生の重要度が高く、特殊・特異な精神が必要とされるから、変化の過程がより難しくなる。病気によりもたらされる苦痛自体が過酷なボクシングの練習のひとつひとつみたいなものなのかなぁと。
ちょっと比喩が変?(笑)


死期が近づいた方ほど、精神が浄化されていくじゃないですか?
天国に入れる様に...なんていうことより、もっと直接的に次の生への精神改造と考える方が、なんとなく科学的(?(笑))だと思いません?


まぁ、この辺りは自分が死ぬときにチェックするしかないことなんですが...


と、いうことで「Y君は厳しい特訓を受け、崇高な次の輪廻に旅立った」というのが私の結論でした。
あ〜、長い説明やったなぁ。(笑)





うん、この内容では間違いなくコメントないなぁ(笑)

ただでさえ最近コメントないのに、またまた引いてしまうような内容書いてどうすんの??



ってそんなことより、こんなことばっか考えているから、いい年になっても貧乏なのよねぇ。もっと働かなくちゃ。。。(苦笑)