ワル

会った瞬間に通じる人っていますよね

12年前の小春日和の日曜日、義父のガーデンパーティ=聞こえはいいけれど、単に焼肉を庭でしたというだけのこと=の時に現れたのがY。
義父とその友達連中は無類の酒好きで、老いても集まっては楽しく可笑しく酒を酌み交わしている。私も酒好きなもので、その仲間入りをしては誰かれとなく「お父さん」と呼ばせていただき、家族の様なお付き合いをさせていただいている。
人生で一番大事なのは「人の縁」と痛感したものです。

お父さんと呼ばせていただいている方の一人、酒もケンカも現役というツワモノの娘婿がYだった。
Yの第一印象は「若かりし頃の安岡力也」。その当時の私は36歳。まだ体力的な自信はあるものの、相手は30歳前後。しかも腕も胸板も私よりふた周りは太い。「ケンカしたら絶対負ける...しかもボコボコにされて」と、恐怖を感じたものだ。(笑)

後で色々と聞いた話だが、やはり昔は暴走族でトップを張っていた札付きのワルだったそうな。警察のお偉方や補導員の方々も「昔はどうしようも手が付けられない悪ガキだったよ。しかし良い義父と出会い、すごい更生をしたもんだよ」と彼のことを語る。
「エライ奴と知り合いになった.....」と思った。(笑)


その後すぐ私は香港赴任が決定しバタバタとした日々を過ごしていたため彼とは会わずじまいに日本を離れた。
そして、着任3日目に香港では誰も知り合いがいない私に電話がなった。

「呑みにいこかぁ!!」Yである。彼は1年ほど前から社命で、香港現地法人を立ち上げたばかりで、その後も毎月通っていたのだ。
Yは彼の義父から、「香港はY、お前の方がよく知っているんだから、markをケアしてやれ!!」とマフィア(笑)のごとき指令が飛んだそうだ。


それから、Yとのハチャメチャの香港の夜が続いた。
いま現在の香港の夜に見受けられる「ハチャメチャな楽しみ方」の原型はY及び、彼の会社のメンバーが作ったものと認識するほどである。


ある日は酔った勢いで、「どれぐらいの衝撃でエレベータは緊急停止するか」を実験した。結果は一発で緊急停止。(笑) その後1時間以上缶詰状態になり、尿意をもよおしては、また実験と称して...(苦笑)、脱出できた頃にはお目当ての店はもう閉店。


こんなことを何度やったやら。


いつ頃からか私のことを「兄やん」と呼び始めた彼。
彼の奔放なキャラクターや生き様が、私が持ち得ない純粋な太陽の光の様に見え始めた。



がある夜、呑んだ彼の振る舞いに疑問を持った私が注意の電話をしたことから、ケンカに発展した。
行きがけの駄賃と、夜中に彼と格闘せざるを得なくなった。
「骨の2・3本は折られる....」不安はあるものの、彼を諭したい気持ちで一杯の私はタクシーを飛ばし、彼のいるホテルへ向かった。
「降りてこんかい!!」タクシーの外から吼える彼。
周囲を歩いていた人達がその場で凍りつく恫喝である。私のタクシーを中心に半径10mの人垣が出来上がった。
しかし、彼は冬のまっただなかに部屋着だけで数十分待ち構えた様で、ブルブルと震えている。「ケンカはいつでもしたる。まずその振るえを止めい。どっか店入ってビールでも呑もうや。ケンカはその後や」風邪をひかれては私も後味悪い。胸倉をつかむ手をやんわりほどきながら、彼を押して店に入る私。
結局お互いの勘違いということが分かって、無益な血は流れずに済んだ。
(とくに私の血が...(苦笑))


単なるワルというわけではない。仕事に対する集中力は並大抵ではない彼。若かりし頃の「連戦連勝」の日々も力だけでなく知恵を絞ってきたのだ。
「自分に負けたらおしまいや」と、営業のレーダーをはりめぐらせ手を考え、製品提案のために現場に入って汗みどろになりながらベストなものを自ら作りあげていった。
人の前ではワルぶりながらも、そうした陰の努力でどんどん頭角をあらわし昨年夏には社長になった。



ところが、悲劇が彼を襲った。
「最近疲れが取れない、気力が続かないときがあって....」昨年はじめて聞いた彼の弱音。
「何を弱音はいてるんや、お前らしゅうないなぁ。頑張らなアカンやないか...」そんなことを言いながら別れた。
社長就任が決まったすぐ後、検診した結果は「骨肉種」。しかも末期だった。



それから彼の壮絶な生への挑戦が始まった。
通常の人なら死んでしまう領域の抗がん剤投与。みるみる間に痩せていったものの、気力と体力でだけを頼りに乗り切り、左肩上腕部骨を摘出し放射線治療後また元に戻すという荒治療も行った。入院中もPCを病室に置き、各地の社員へ叱咤激励しながら社長業を続けた。



医者が「信じられない」というほどの、人間の限界を超えた生へのチャレンジであった。


昨年末、彼の香港法人10周年と社長就任のパーティに呼ばれた私。
過去に2年ほど、一緒に仕事した期間があったものの、その後は直接的な関わりがなかったため、末席で彼の退院を祝いたい思いだけで参加させていただいた。が会場に行ってみると、私が彼の横...いわゆる主賓席であった。
「兄やん、よう来てくれたなぁ」と痩せ細っり左肩はほとんど使えずぶら下がっているだけの状態だが、相変わらずの口の端を上げる「ワル笑顔」で闘病記を面白可笑しく語るY。


「骨肉種っちゅうのは子供が掛かり易い病気なんやて。」
「やからなぁ俺はじめて神様に感謝したんよ。こんなたいそうな治療を子供にさせたぁないやん。俺が子供の分を受けたんや思うてなぁ。」


涙をさそう話である。
「どあほ」と言いたいぐらい、エエ奴である。
湿っぽくなっては...と思い話題をかえる私。

「しかしまぁエライ坊主頭やナァ、今頃昔の懺悔かいナァ。ネエチャンにもてへんでぇ〜」抗がん剤投与で抜け落ちた髪がやっと生えだした彼に私が愛情を込めた悪口を言う。
「俺は病気やからええねん。兄やんは病気でもないのに髪の毛あれへん、ジジイなってるやん!!」と笑いながら言い返す彼。


肺に転移したガンを殺した放射線は、彼の肺機能をも著しく低下させていた。
「兄やん、俺はまだまだやらなアカンこと一杯あるねん。こんなところで死んでられへんねん。これからも兄やん色々と助けてな。」「やけどなぁ、息するのも喋るのもしんどいねん。兄やん健康には気い付けてなぁ」
昔はピースライトを美味そうにすっていた彼が軽いタバコにかえながらも、すい続けているのを見るのが辛かった。


その後直接会う機会はなかったものの、体の無理を押してフィリピンの工場立上げで現地采配を振るった...などの話を人づてに聞いた。
「Y、無理したらアカンで...」遠いところから祈っていた。



そして今週月曜日、彼は帰らぬ人となった。


たかだか12年...しかも年に数日の付き合いであったが、多くのことを私に教えてくれたY。
私は何を教えて上げられたのだろうか。
何をしてあげられたのであろうか。


体の一部分がもがれた様に感じる。

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ずるいぞ、Y。相変わらず勝ち逃げしたなぁ。
勝ち逃げの罰に、先にいって私の分まで良い場所を取っておいてなぁ。