優しさ

marktheshadow2005-12-16

一生ついてまわるイメージ
 

物心ついた時から山を見、海にふれて育った私。
そんな私にとって、なぜだか「山」「海」が父のイメージなのだ。

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幼い頃から「優しい子」「茶目っ気のある子」といわれて育った。
争うことがきらいで、他人が争っているのを見ているだけで、我がことのように悲しくなってしまう多感な子だった。だからだろうか? 子供らしい純真な目を「クリクリ」と大きく開けては人を笑わせて、その場の空気を変えることが自分の役目なのだと信じていた部分があった。
しかし、その裏で悲しさを感じていた。何をか....それは分からない。
人を笑わせる分だけ悲しさに包まれていた。

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そんな私も10代になり、異性と接するようになる訳だが、さすがに茶目っ気は少し陰を潜めたものの、「優しい人」というレッテルだけが残った。彼女の両親から言われるのは、「良いこと」と認識していたが、次々と彼女から振られる度にこの言葉を言われ続けた。
まるで「優しいだけじゃダメ」と言いたいが為にか...

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20代になり「優しいだけの男は生きる意味がない」...まるで「人間の証明」の文句の様な言葉がいつも脳裏から離れなかった。
「優しい」ではなく「やり手」「たくましい」「痛快」...なんでも良かった。「危険な男」でも良かった。ウチに秘めたパワーを見てレッテルを貼ってもらえないことに、ギリギリしていた。

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30代になり父と決別した後も、結局は誰からも合うことさえも拒否された彼の寂しい後姿を放っておけず、1年に数度ムリな出張を入れては一時の親孝行もどきの時間を作った。
そして、ある日彼が倒れた。
最終の新幹線に飛び乗り、彼が生活していた見知らぬ街にたどり着いた。
医者の宣告は「脳梗塞」...しかも本人も気づかぬ間に二度目となっていた。左右の脳はバランスをくずし脳内に溜まった血液が大脳自体を圧迫し、すでに脳死状態であった。
「延命措置で、まだ2日はもたせることができますが?」と聞く医師に、「痛いこと・苦しいことが一番キライだった人です。楽にしてやって下さい」と答えるしかない私。
心肺機能が丈夫な彼の体は、延命措置をカットした後も5時間ほど生き続けた。知らない人が聞いたら寝ているだけ?と思えるような、安定した呼吸をしながら。
そして最後にひと言「はぁ〜」と大きなため息をはいて、彼は逝った。

「大変だったけれど、楽しい人生だったろ?! お疲れさん。先に向こうに行って、よい席とっておいてくれよな...いままでありがとう」
こうして一人で看取り、一人でお通夜をし、彼を見送った。

この時、やっぱり私には「非情な性格」は似合わないのだと思った。
葬儀の時に集まった僅かばかりの親戚...どこか空々しく、言葉を掛けたくともまわりを意識して素直になれない人達。
だが、最後に全員が号泣した。
「彼も...いや彼が悪いのだから今までのことはいいのだよ。皆本当の心で泣いてくれてありがとう。彼は喜んでいるよ。」

この日から、私は大人になった...と思う。

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そんな私も40代の終わりにさしかかっている。
父の亡くなった年齢に近づいてきているのだ。

今日も「山」を見ながら、優しい気持ちに浸っている。