霧雨に消えたアリ

marktheshadow2005-05-31

【出会い、そして別れ....】

香港は人種の坩堝。ニューヨークの次に外国人比率が高いのではないでしょうか。(確証はありません、単なる思い込みです、ハイ(笑))

香港に来た当初、食べ物が合わずまた英語が通じなくて、会社に居てもうまく仕事ができない日々が続きました。(これは以前に書きましたよね) 好きな音楽でさえも、楽器も持ってこなかったことが悔やまれました。 お金もなく、どこに行けばギターが買えるのかさえも分からず、悶々とした日々を送ったものです。
2ヶ月経過してやっと手に入れたクラシックギター。HKD600(約1万円)で、最低の最低...という品質。音色だけ聞いて「markさんウクレレうまいねぇ〜」と真顔で言われたものです。(笑) しかし、そのギターを担いで近くの公園に行き一人で歌うことが慰めの数ヶ月がありました。
その時、出合ったのがパキスタン人の「アリ」。 彼は友達とスーパーに買出しに来たついでに4人で近くの公園でビールを飲んでいたのでした。
「ニイチャン一人で寂しいだろ、こっちに来て一緒にビール呑まない?! ここへ来て歌いなよ。」実は香港ではじめて私の英語を完璧に理解できたのが彼「アリ」だったのです。

だんだん仲良くなり、彼の家に自由に出入が許された「唯一のパキスタン人以外の友達」という仲になりました。

これが大変。 3階建ての通称「カントリー・ハウス」と呼ばれる、アパートに住んでいるのですが。。。どうも建設途中で頓挫した物件。一応屋根、窓まではあるものの扉がない。(苦笑)
出入する度に扉がわりの大きな木材板を動かして入ります。彼の住んでいたのは、2階。彼いわく、
「1階じゃ無用心だろ?」(扉ないから一緒違う?(笑))
「3階だと上がるの面倒じゃん」(マァ、確かに.....)
その2階に夕方5時ぐらいからアリの弟分が集結してきます。その数、十数名。日本の十二畳くらいの部屋でも、これだけ集まるとギュウギュウ。 で、集まってくる若者が好意で自分のタバコを吸えと進めてくれる。 消したと思ったらまた別の若者がタバコを吸えとせがむ。。。危うくクンセイになりそうなほど。。。(苦笑)

そこにアリの手料理が振舞われます。「手羽先のカレー風味」「ソーセージと温野菜」etc裕福とはいえないまでも、全て心のこもった、時間の掛かった料理が振舞われます。
パキスタン料理かと聞いてみると、全然違うという笑いながら説明するアリ。「弟分多いからなぁ、安い材料で作らないと大変だろぅ?!」といつも笑いなが答えるアリ。 1缶ずつ握ったビールだけで夜がふけてい
く。 私も次第に日本料理的なものを携えて通うようになりました。

母国の言葉で誰かが口火を切り話しだすと、終わり頃にアリが内容を通訳してくれ、それにあった曲を歌うよう私に求めてきます。 いわばBGMが私の役目。嬉しい曲、元気になる曲、悲しい曲、たんたんとした曲。。。。覚えている限りのレパートリーの中から歌うと、日本語の曲であっても皆が静かに聞きいってくれるのです。 コミュニケーションがうまく出来ない、その頃の私にとってそこは天国でした。
そしてまた次の話題へ。そのウチ何人かがトラックへの積み降しなどのアルバイト獲得のために出て行ったり、帰ってきたり。。。夜どおし、こうした出入が続くのです。

ある日、パキスタンの政治・経済情勢の話をしていた様です。アリいわく「周辺の国の圧力が強く自国の政治・経済に問題が出てきている。皆の怒りを抑えるために静かな曲を歌ってくれ。」というのです。 スローバラードを歌いました。最初に一人、次に二人と泣き始めました。つられて皆がすすり泣く。

皆が車座になって泣いています。 その中で一番若い男がパキスタンなまりながら私に理解できる英語で訴えかけてきます。 「祖国にいても、自由を手にするため死に物狂いでやってきたココも一緒だ。 我々は何十年と搾取に
あって、ただ呆然とそれを見逃すしかない。誰もそれをわかってもくれない。」「なぜこんなことで嘆かねばならないのか。markは......こいつは友達だから聞いてくれる。 そう、聞いてくれるだけでいいんだ。 なぜそれすら他の人はしないのか。我々がそれに値しない人間だからなのか?!」

はっきり言って、その言葉に恥ずかしくなりました。 もちろん物見遊山でアリの家に行っていた訳ではありません。 人に対する優しさ、歓迎をいつも忘れず自然に私に「微笑みかける」彼らに魅せられたのです。 日本人が忘れかけている一期一会の気持ち。 一生懸命に働く彼らの前向きさ。 何もしてあげることができないものの、せめて日本の手作りの料理でも食べてもらえたら。せめてギターだけでも教えてあげられたら。せめて日本の歌だけれど、彼らのストレスが払拭できれば...と願って。。。
しかし、なす術のない自分の甘さや、他人と一緒に住んでいるから自分の家に招待できない...言い訳ともとれる私の言葉に対して一切非難もしない彼らのすがすがしさに情けなさを感じたのでした。 それほど皆が受入てくれたことに対して自分のふがいなさが情けなかったのです。

そして出会いから3ヶ月後、朝から香港では珍しい霧雨の日。 彼らがそこで生活していた痕跡すら全てかき消す様に、突然彼らが居なくなったのです。 おそらく入国管理局の一斉検挙にあったのでしょう。 そう物語るように、私がプレゼントとして、また私が訪問した時に歌ったり、弾き方を教えてあげるために渡していたギターが「残骸」となって残っていました。

その後数年間、またスーパーで見かけられるのではないかと、いつも彼らの姿を求めました。

昨年末、偶然他の場所でアリを見かけたのです。 嬉しくて近寄って声を掛けたもののアリは他人を見る目でした。 あんなに優しかった瞳が、笑うと人懐っこく輝いていた瞳が...冷たい色に変わっていました。

アリは香港ビザを持っていましたから、国外退去にはならなかった。 しかし多くの自分の兄弟親戚、友達は労働ビザを持っていなかったのでしょう。アリは辛い目をして全員本国送還されるのを見送ったのではないかと想像します。 そして....おそらく通報者が私かも知れないと疑っているのではないでしょうか。 そう考えるのが、普通でしょう。。。

同じ出稼ぎ労働だけれど、なぜ神様はこんなに差別を作るのでしょうか。 働かせていただくその土地を耕し、土台を築きに来ているのは同じなのに。。。

もうあの様な、ひと時は取り戻すことができない。 そう考えると......

アリ....いつの日にか、またあの微笑みを取り戻してください。 届かぬ言葉だけれど。。。

よろしければ、ここを押してください。ブログランキングに参加しています。